紫式部と越前たけふ
996年(長徳2年)、紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)が越前守<えちぜんのかみ=現在でいう県知事>に任ぜられました。母親を幼くして亡くしていた紫式部は京から父とともに越前国へ下ります。
紫式部が生涯でただ一度だけ、京から生活の地を移したのが越前国(えちぜんのくに)でした。998年(長徳4年)の春ごろに帰京するまでの期間を紫式部は越前で過ごしました。
※997年(長徳3年)の秋もしくは冬に帰京したという説もあります。
越前での生活や京と越前との往復の旅は、紫式部の意識や創作に大いに影響を与えたことでしょう。
越前国府(こくふ)は現在の福井県越前市 武生(たけふ)地区にあったことは明らかです。市内には「国府」という地名もありますが、越前国府の地域は諸説ありまだ確定されていません。
※国府(こくふ)=京から赴任した国司が行政をつかさどる国庁の所在地。国府を中心に政治・宗教・文化・交通などが栄えました。
<当サイト内、紫式部について のページ>
・『花橘亭〜源氏物語を楽しむ〜』>「紫式部について」
【本文と訳は 渋谷栄一先生のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】
■『源氏物語』第51帖<浮舟(うきふね)>において、宇治に浮舟を置いて帰京する浮舟の母の言葉に以下の一文があります。
「(略)武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを。(略)」
(訳=(たとえ浮舟が)武生の国府にお移りになっても、こっそりとお伺いしますから。)
母との別れを悲しむ浮舟に対して、母はなぐさめの言葉をかけます。京から遠い地のイメージとして“武生の国府”が本文中にたとえられています。この日の別れを最後に、浮舟は再び母と直接逢うことは叶わないのでした。
■『源氏物語』第53帖<手習(てならい)>において、以下のような文があります。
「たけふ、ちちりちちり、たりたむな」
など、掻き返し、はやりかに弾きたる、言葉ども、わりなく古めきたり。
(訳=「たけふ、ちちりちちり、たりたんな」
などと、撥を掻き返し、さっそうと弾いている、その言葉などは、やたらと古めかしい。)
浮舟を救った横川僧都(よかわのそうず)の母である大尼君が口ずさんだ歌詞に「たけふ」という語が含まれています。
これは、催馬楽(さいばら)と呼ばれる歌謡の「道口(みちのくち)」という曲の一部で、平安時代後期には廃絶した曲のようです。下記は催馬楽「道口」の歌詞。
「道の口 武生の国府(こふ)に 我はありと 親に申したべ 心あひの風や さきむだちや」
(参考:「平安時代史事典CD-ROM版」 角田文衞 監修/角川学芸出版 発行)
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