越前国府
現在の福井県の北部が越前国(えちぜんのくに)に相応し、当初は加賀や能登をも含む大国でした。越前国府は福井県越前市(旧 武生市)に置かれており、政治・経済・文化の中心として栄えました。
国司の官位は上から 守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)があり、紫式部の父・藤原為時(ふじわらのためとき)が任命されたのは越前守(えちぜんのかみ)、つまり越前国の長官ということになります。
996年(長徳2年)元旦、紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)は淡路守(あわじのかみ)に任ぜられ、越前守には源国盛(みなもとのくにもり)が任ぜられました。しかし任命の数日後には国替(くにがえ)となり、藤原為時が越前守になりました。この経緯については、『今昔物語集』や『古事談』、『十訓抄』、『今鏡』にエピソードが遺されています。
越前国の敦賀にはかつて松原客館(まつばらのきゃくかん)という渤海(ぼっかい)使節の滞在する外交施設がありました。当時、渤海国は滅亡していましたが、松原客館には宋人が滞在しており藤原為時は漢詩の才能と交渉力を買われて、越前守に任ぜられたとも考えられます。
紫式部は越前国滞在の間に見聞を広め東アジア世界への視野を広げたのではないのでしょうか。紫式部は帰京後、遠縁の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚します。
藤原宣孝は、筑紫<九州>において筑前守(ちくぜんのかみ)と大宰少弐(だざいのしょうに)を兼任した経験もあったため、紫式部は夫である宣孝からも国際的な情報を得たことと思われます。
■松原客館(まつばらのきゃくかん) |
福井県敦賀市にありましたが所在地は諸説あり不明。
越前国一宮(いちのみや)である気比神宮(けひじんぐう)周辺も推定地のひとつ。
⇒気比神宮公式webサイト |
■筑前守 (ちくぜんのかみ) |
筑前国(ちくぜんのくに)は大陸文化流入の第一線であり、現在の福岡県北西部に相応します。藤原宣孝は紫式部との結婚前に筑前国の長官を経験していました。 |
■大宰少弐(だざいのしょうに) |
大宰少弐は大宰府の実質上の次官。大宰府は筑前国に置いてある九州全体を治める役所でその規模から“遠の朝廷(とおのみかど)”とも呼ばれます。軍事防衛と外国との交渉窓口の役割も果たしていました。 |
京から赴任した国司が政務を執る国庁を中心に造成された都市のことです。
国庁(こくちょう)とは、国府の中核をなし政治をつかさどる官庁で、国衙(こくが)と同意義語としてとらえられています。
※国衙(こくが)の定義については曖昧な部分もあり明言できません。(^^;)
現在、福井県越前市のJR武生駅の西側には、国司と関わりの深い総社・国分寺が存在します。現在の総社大神宮や国分寺の位置や規模は古代とは異なりますが、本来あった場所からあまりにもかけ離れた場所には移転しないのではないのでしょうか。
武生に越前国府があったということは揺ぎない事実だと思われます。
●所在地 |
:福井県越前市蓬莱町8−8 |
●交通 |
:JR武生駅から徒歩5分 |
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越前市の歴史や文化を特別展や常設展で紹介されています。
講座や講演会も開催。 |
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常設展「越前国府」の解説書(500円)が2009年3月から販売中です。
≪目次≫
紫式部ってどんな人?
紫式部年表
紫式部と越前国
国司とは・・・
国府とは・・・
越前国府の位置
国府とかかわりの深い建物
越前市の古代寺院
王子保窯跡群 |
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【参考】 |
「平安時代史事典 CD-ROM版」 |
角田文衞 監修 |
(財)古代学協会・
古代学研究所 編 |
角川学芸出版 |
「京都 紫式部のまち
その生涯と『源氏物語』」 |
坂井輝久 文 |
井上匠 写真 |
淡交社 |
「源氏物語と東アジア世界」 |
河添房江 著 |
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日本放送出版協会 |
▲このページの一番上に戻る 写真撮影:2008年10月26日
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