Home紫式部について大弐三位藤原賢子について

大弐三位藤原賢子(だいにのさんみ/ふじわらのかたこ・かたいこ・けんし)

 平安中期の女官。歌人。歌集『大弐三位集』を遺す。

生年は、999年(長保元年)または1000年(長保2年)。
没年は、1082年(永保二年)と考えられている。

父は、藤原宣孝。
母は、紫式部。 祖父は、越後守藤原為時。

 幼少期は母・紫式部とともに<堤第(つつみてい)>で過ごしたと思われる。

 若い頃から、上東門院藤原彰子(一条天皇中宮)のもとに出仕。

 数々の恋愛ののち、大宰大弐(だざいのだいに)高階成章(たかしなのなりあきら)と結婚し、為家を出産する。
賢子

 後朱雀天皇の第一皇子・親仁親王(ちかひとしんのう=のちの後冷泉天皇)の乳母(めのと)の一人となり、親仁親王が即位するにあたって、典侍(ないしのすけ)に任ぜられ従三位に昇進。

 「大弐三位」という女房名は、夫の成章の官名・大宰大弐と賢子自身が三位であることにちなむ。

 記録の上では、「大弐三位」のほか、出仕して間もない頃は、祖父である為時の官名にちなんで「越後弁(えちごのべん)」、のちには「藤三位(とうのさんみ)」、「弁乳母(べんのめのと)」などと呼ばれた。

 高齢になっても、宮廷歌人として活躍した。<天皇家と子孫の関わり>

 『源氏物語』や『狭衣物語』の執筆・完成に関わっているという説があるが定かではない。



西暦 年号 事柄
999年or
1000年
(長保元年)
(長保2年)
誕生
1001年 (長保3年) 父である宣孝 亡くなる
1014年 (長和3年) 母である紫式部 亡くなる?
(多数ある没年の説の中で最も短命な場合)
    上東門院藤原彰子の女房として出仕する
    藤原定頼(公任の子)と恋愛
    藤原頼宗(道長の子)と恋愛
    源朝任(時中の子、雅信の孫)と恋愛
      藤原兼隆(道兼の子)と結婚し、一女をもうける
1025年 (万寿2年) 後朱雀天皇の第一皇子親仁親王(ちかひとしんのう=のちの後冷泉天皇)誕生
親仁親王の生母・嬉子 出産の2日後に薨去
親仁親王の乳母(めのと)となる
1031年 (長元4年) 母である紫式部 亡くなる?
(多数ある没年の説の中で最も高齢な場合)
1032年 (長元5年) 上東門院(藤原彰子)菊合に和歌作者として参加
1038年 (長暦2年) 高階成章との間に、為家を産む
源師房家歌合に和歌作者として参加
1045年 (寛徳2年) 後冷泉天皇 即位
典侍(ないしのすけ)に任ぜられ、従三位に叙せされる
1049年 (永承4年) 内裏歌合に和歌作者として参加
1050年 (永承5年) 祐子内親王家歌合に和歌作者として参加
1054年 (天喜2年) 夫である高階成章 大宰大弐に任ぜられる
    夫の高階成章に会うために2度大宰府へ赴く
1058年 (康平元年) 夫である高階成章 任地で亡くなる
1066年 (治暦2年) 後冷泉天皇皇后藤原寛子家歌合に和歌作者として参加
1068年 (治暦4年) 後冷泉天皇 崩御
1074年 (承保元年) 上東門院藤原彰子 崩御
1078年 (承暦2年) 白河天皇主催の内裏後番歌合(だいりごばんのうたあわせ)に和歌作者として参加
1082年 (永保二年) 亡くなる?
賢子系図



『百人一首』に収められている大弐三位の和歌

    大弐三位

有馬山 ゐなの笹原 風吹けば
     いでそよ人を 忘れやはする

(歌の意: 有馬山のあたりの猪名(いな)の笹原に風が吹き渡ると、そよそよと音をたてるわ。それですよ。私はあなたのことをどうして忘れなどしましょうか。私はあなたのことを忘れなどしません。)



参考

・『平安時代史事典』CD-ROM版 監修:角田文衛/編・古代学協会・古代学研究所
発行:角川学芸出版
・『紫式部伝
 ―その生涯と「源氏物語」』
著:角田文衞/発行:法蔵館


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