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紫式部について

  『源氏物語』・『紫式部日記』・『紫式部集』の作者。

 生年は973年頃、没年は1031年(長元4年)頃と考えられている。※生没年には諸説あり。最も短命な場合の説では、没年は1014年(長和3年)。

 本名は未詳だが、角田文衞氏によって「藤原香子(たかこ・かおりこ・こうし)」説が提起されている。

 父は、藤原為時。母は、藤原為信の娘。幼い頃から才気を発揮しており、父・為時は紫式部が男子でなかったことを惜しんだらしい。

 996年(長徳2年)、父・為時が越前守になり共に越前に下向する。
997年(長徳3年)の秋〜998年(長徳4年)春頃、帰京。

 999年(長保元年)、藤原宣孝(ふじわらののぶたか)と結婚し、同年または翌年に 賢子(けんし・かたこ=のちの大弐三位)を出産するものの、宣孝の死によって結婚生活は終止符を打たれた。1001年(長保3年)のことだった。

 夫・宣孝の死後、『源氏物語』の執筆を始めたと考えられる。

 1005年(寛弘2年)または1006年(寛弘3年)、藤原道長の娘で一条天皇の中宮・彰子<のちの上東門院>に女房として仕えるようになり、「藤式部」と呼ばれる。
 
 『源氏物語』の完成時期は不明だが、宮仕え中や里邸<堤第(つつみてい)>において書き続けられたと思われる。

 紫式部の日記、『紫式部日記』寛弘5年(1008年)11月1日の条に

左衛門督、
「あなかしこ、このわたりにわが紫やさぶらふ」
と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、かの上はまいていかでものしたまはむと、聞きゐたり。


現代語訳:
左衛門督(藤原公任)が、
 「さて恐れ多いことです、この辺りにわたくしの紫さんはおいでかな」
と、中を覗かれる。光源氏に似たような方もここには見あたらないのに、まして紫の上なんてどこにいらっしゃいますか、と、わたくし聞き流していたのでした。


という記述があることから、部分的であるかもしれないが1008年(寛弘5年)11月には、『源氏物語』が藤原公任(ふじわらのきんとう)や貴族たちにも読まれていたことがうかがえる。


 「紫式部」という呼称の由来は諸説あるが一説には、『源氏物語』の登場人物“紫の上”にちなんで呼ばれるようになったという。「式部」は、父・藤原為時が式部省の官僚“式部大丞(しきぶのたいじょう)”だったことによる。


 伝・紫式部の墓が京都市北区堀川北大路下る西側にある。紫式部の墓の場所については、室町時代に書かれた『源氏物語』の注釈書である「河海抄(かかいしょう)」に記されており、現在の伝承の場所と一致する。 


<紫式部系図はこちら>
 
京都文化博物館の紫式部像
石山寺 源氏の間 紫式部人形
石山寺の紫式部像
宇治橋の西詰にある紫式部像
時雨殿で展示されている紫式部の人形
福井県越前市 紫式部公園の紫式部像
「藤波亭」 越前和紙でつくられた女房装束姿の紫式部
「旅亭 紅葉」の紫式部像
千本ゑんま堂の紫式部

※『紫式部日記』は、『新訂版 紫式部と和歌の世界 一冊で読む紫式部家集 訳注付』(編:上原作和・廣田収/発行:武蔵野書院)より引用



『百人一首』に収められている紫式部の和歌


紫式部      紫式部

  めぐりあひて
 見しやそれとも
  わかぬ間に
 雲隠れにし
  夜半(よわ)の月かな

(歌の意:久しぶりに幼馴染みである貴女とあったのに、貴女であるのかどうかもわからぬうちに、あわただしく帰っててしまわれたよ。まるで雲の中に姿を隠す夜半の月のように。)



参考

『平安時代史事典』CD-ROM版 監修:角田文衛/編・古代学協会・古代学研究所
発行:角川学芸出版
webサイト『社団法人 紫式部顕彰会』


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