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紫式部の情報源 |
生涯のほとんどを平安京とその周辺で過ごした紫式部。九州を訪ねたことがないであろう紫式部に九州の様子を伝えたのは誰の影響が大きかったのでしょう?
紫式部に九州の情報をもたらした人物は紫式部にとって身近な人物でもありました。
筑紫の肥前に下った紫式部の女友達
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●平維将女
(たいらのこれまさのむすめ)
紫式部の歌集『紫式部集』には、筑紫の肥前へ下った女友達との贈答歌が数首、掲載されています。
紫式部と和歌を交わしていた女友達は、父が肥前守(ひぜんのかみ)となったため父親とともに京から肥前国(ひぜんのくに=現在の佐賀県・長崎県)へ下ったのでした。
紫式部は姉を亡くし、筑紫の女友達は妹を亡くしていることから、お互いを“姉君”・“中の君(=妹君)”と呼び合ったと『紫式部集』に収められている歌の詞書きに記されています。
※紫式部と和歌を交わした筑紫の女友達が誰であるのか諸説あります。 |
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・『花橘亭〜源氏物語を楽しむ〜』>紫式部ゆかりの地>紫式部と鏡神社
藤原宣孝・・・紫式部の夫
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●藤原宣孝
(ふじわらののぶたか)
紫式部の年の離れた夫。
紫式部との間に娘・大弐三位<賢子>がいます。
紫式部との結婚前に、筑前守(ちくぜんのかみ)と大宰少弐をつとめた経験があります。
また、紫式部との結婚後に「宇佐使」(豊前国にある宇佐神宮への勅使)に選ばれています。
・・・よって、藤原宣孝は九州の地理や情報に詳しく、九州の様子を紫式部に伝えたのではないかと考えられています。 |
宇佐神宮 【公式サイト】
■大分県宇佐市大字南宇佐
御祭神は、八幡大神・比売大神・神功皇后。紫式部の夫・藤原宣孝は、長保元年(999年)末に「宇佐使」となり、宇佐神宮へ下向しています。(翌年2月に帰京) |
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