『源氏物語』 第二十二帖 玉鬘 “松浦の宮の前の渚”から船出
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大夫の監(たいふのげん)の求婚から逃れるために、肥前から京へ上ることを決心した玉鬘と乳母一家。
乳母の家族の中には、玉鬘に仕えることを選び、肥前でできた家族を置いていく者もいました。
源氏物語<玉鬘>巻で、玉鬘と乳母たちが肥前から船出する際
ただ、松浦の宮の前の渚と、かの姉おもとの別るるをなむ、顧みせられて、悲しかりける。
(訳:ただ、松浦の宮の前の渚と、姉おもとと別れるのが、後髪引かれる思いがして、悲しく思われるのであった。)
という文章があり、乳母一家は家族との別れと「松浦の宮の前の渚」との別れを悲しんでいます。
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【本文・訳は渋谷栄一氏のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】
“松浦(まつら)の宮”とは、鏡山の西側ふもとにある鏡神社のこと。
古代は、鏡山のふもとが海岸線だったそうで、鏡神社の前には美しい渚が広がり、素晴らしい景観だったと思われます。
(現在のように海岸線に松が植えられ整備されたのは江戸時代です。)
玉鬘へ強引に求婚してくる大夫監(たいふのげん)から逃れるため、この唐津湾<松浦の宮の前の渚>から都へと旅立ったものの、その背景には乳母一家の離散という悲しい現実がありました。
乳母の娘である“おもと”は肥前での家族が多くなっているため、肥前に残りました。
二郎・三郎も大夫監(たいふのげん)側についていたので、帰京していません。
玉鬘を育てた乳母(めのと)とその家族たち
大夫の監(たいふのげん)に気づかれ追っ手が来るのではないかと脅えながらの船旅でしたが、やがて無事に帰京した玉鬘と乳母たちでした。
『源氏物語』の作者である紫式部は、肥前の国を訪れたことはありません。しかし、紫式部には肥前に住む女友達がいたことが紫式部の歌集『紫式部集』からわかっています。
“松浦の宮の前の渚”がいかに美しいか、その女友達から聞いていたのかもしれませんね。
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現在の唐津城から見た「虹の松原」と唐津湾
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鏡山山頂から見た「虹の松原」と唐津湾 |
■万葉集にも詠まれた鏡山<領巾振山・松浦山>
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現在の唐津城から見た鏡山 |
写真中央に見える台形の山が「鏡山(かがみやま)」。写真左側の海岸線が“虹の松原”、写真右側に流れる川が松浦川です。
(※注/万葉集に詠まれている松浦川は、現在の松浦川とは異なります。)
鏡山は「領巾振山(ひれふりやま)」または「松浦山」と呼ばれ『万葉集』に収められている歌にも詠まれている山です。
鏡山が「領巾振山(ひれふりやま)」ともよばれるのは、松浦佐用姫(まつらさよひめ)の伝説に由来します。
紫式部は、『万葉集』とも関わり深い“松浦”の地名が持つイメージ(朝鮮半島や大陸に近い・船出など)を『源氏物語』作中に取り入れたかったのかもしれません。
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『源氏物語』第二十二帖<玉鬘>から第三十一帖<真木柱>までの十帖は玉鬘が主となった物語なので「玉鬘十帖」と呼ばれます。
上京後、光源氏によって花散里のいる六条院 東北の町<夏の御殿>にひきとられますが、京でも求婚者が多く、光源氏からも思慕されるようになり玉鬘は困惑します。
父である内大臣<もと頭中将>とは裳着の際に親子の対面。
冷泉帝の尚侍(ないしのかみ)として宮中に出仕ののち、鬚黒と結婚して三男二女の母となりました。 【写真は風俗博物館所蔵の人形】 |
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光源氏の崩御後、『源氏物語』第四十四帖<竹河>で、その後の玉鬘ファミリーにスポットがあてられます。
右の画像は『国宝源氏物語絵巻』<竹河>より、桜の木を賭けて囲碁に興じる玉鬘の娘ふたり。(部分)
鬚黒亡き後、玉鬘の大君(長女)の美貌が評判となり、冷泉院・今上帝・夕霧の息子の蔵人少将から求愛されます。結果、大君は冷泉院のもとへ参院。玉鬘の中の君(次女)は今上帝のもとへ尚侍(ないしのかみ)として出仕。
息子たちの出世の遅さにも心を悩ませる玉鬘なのでした・・・。 |
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