松風村雨堂(まつかぜむらさめどう)
●所在地 |
:神戸市須磨区離宮前町1丁目2番 |
●交通 |
:山陽電車「月見山」駅下車 徒歩7分 または 「須磨寺」駅下車 徒歩7分 |
平安時代、文徳天皇の御代に京から須磨へ蟄居することになった在原行平。行平は、多井畑(たいのはた)の村長(むらおさ)の娘「もしほ」と「こふじ」に出逢い、それぞれ「松風」・「村雨」と名づけて愛したといいます。帰京の際、行平は烏帽子と狩衣を松に掛けてふたりへの片身とし旅立ちました。
「松風」と「村雨」は行平を慕い続け、行平の須磨での住居のかたわらに庵を建て観世音菩薩に行平の幸福を祈りました。
現在のお堂は、その庵の跡と伝わります。 |
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■『源氏物語』第12帖<須磨>において、光源氏の須磨での住まいについて以下の記述があります。
おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ」侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。
(訳=お住まいになる所は、行平中納言が、「藻塩たれつつ」と詠んだ侘住まい付近なのであった。海岸からは少し入り込んで、身にしみるばかり寂しい山の中である。)
【源氏物語の本文と訳は 渋谷栄一先生のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】
光源氏が須磨で暮らした住まいは、実在の人物である在原行平の住まい<明確な場所は不明>の近くであるという設定です。『源氏物語』本文に在原行平の歌「藻塩垂れつつ」が効果的に引用されています。
行平の和歌:「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩垂れつつわぶと答へよ」
(たまたま私のことを尋ねる人があれば、須磨の浦で海藻に海水をかけて垂れる水のように、涙を流しながら侘しく暮らしていると答えてください)
松風村雨堂もまた、在原行平の住まいの近くに建てられたと伝わります。
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松風村雨堂 入り口
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境内
衣掛松(きぬがけのまつ)とお堂 |
「松風村雨堂」の碑の側面に小倉百人一首で知られる在原行平の和歌が刻まれています。
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中納言行平
立ちわかれ
いなばの山の
峯におふる
まつとし聞かば
今かへりこむ
意味:
あなたと別れて、私は因幡(いなば)の国へ行きますが、
因幡の稲羽山(いなばやま)の峰に生えている松のように、あなたが私の帰りを待っていると聞いたら、すぐにでも帰って来ましょう。 |
※この和歌に登場する“いなばの山”を現在の須磨離宮公園付近の「稲葉山(=月見山)」とし、行平が帰京の際に烏帽子と狩衣に添えて、松風と村雨へ詠んだ歌と考える説もあるようです。
そうすると、歌の意味としては
「私はあなたたちと別れ、都へ行きますが、“いなばの山”に生える松のように、あなたたちが私の帰りを待つというのを聞けば、私はすぐにでも須磨に帰って来ましょう」
ということになりますね。
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観音堂
合掌。(-人-) |
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供養塔でしょうか。
お地蔵様もたくさんいらっしゃいます。 |
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塔に「松風」「村雨」の名が刻まれていました。 |
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磯馴松(いそなれまつ)
在原行平が松風・村雨との別れの前に手ずから植えた松と伝わります。 |
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衣掛松
現在では、三代目の「衣掛松(きぬがけのまつ)」が育っています。
在原行平は帰京の際に、
「立ちわかれいなばの山の峯におふる まつとし聞かば今かへりこむ」の和歌を添え、姉妹への形見としてに烏帽子と狩衣を松の木に掛けて旅立ったのだとか。 |
「衣掛松」のそばに謡曲史跡保存会による駒札が建っています。
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謡曲「松風」と松風・村雨堂に磯馴松
謡曲「松風」は、宮廷歌人在原行平が須磨に流された折、姉妹の海士女(あまおとめ)を愛した話を基に、女心の一途な恋慕や懊悩の姿を幽玄の情趣で表現された叙情豊かな名曲である。
須磨の浦で、いわくあり気な松を見た諸国一見の旅僧は、海士女 松風・村雨の旧跡と聞き念仏して弔う。乞うた宿の二人の乙女は「恋ゆえに思い乱れ世を去った松風村雨の幽霊である」と告げ、形見の烏帽子、狩衣を着て物狂おしく舞い、妄執解脱の回向を請うと、二人の姿は消えて、ただ松に吹く風の音が残るばかり・・・。旧跡を訪うた旅僧の夢であった。
行平の謫居跡に彼を慕う姉妹が結んだ庵の跡が「松風・村雨堂」と伝えられる。別れに臨み行平が手ずから植えた「磯馴松(いそなれまつ)」は堂の近くにあり、古株のみが残って昔を語っている。
謡曲史跡保存会
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2008年10月5日(日)〜11月24日(月・振休)まで開催されたスタンプラリークイズの問題です。
解答はおわかりですよね♪(*^ ・^)ノ⌒☆
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