『花橘亭〜源氏物語を楽しむ〜』源氏物語ゆかりの地をめぐる「須磨」「明石」紀行「須磨」を歩く
源氏物語ゆかりの地をめぐる
       
 



源氏物語の「須磨」を歩く


須磨

 源氏物語ゆかりの地「須磨」

 光源氏26歳の春、愛する女性たちを京に残し、摂津国須磨に退去します。光源氏の須磨流謫は、かつて在原行平(ありわらのゆきひら)が須磨に謫居したことがモデルとなっています。

 光源氏は須磨での寂しい暮らしを嘆くのみではなく、つれづれなるままに古歌などを書いてみたり、須磨の海岸の景色を絵に描いたりもしています。この時描いた須磨の絵こそが、のちに<絵合>の帖で重要な役割を果たすことになります。

 翌年、3月最初の巳の日、光源氏が陰陽師を召して須磨の浜辺で禊を行ったところ、暴風雨に襲われ雷が鳴り稲妻が閃きました。翌日の明け方、光源氏の夢枕に海龍王が来て自分を探し回るという夢をみます。光源氏は須磨の地を離れたく思うのでした。


■『源氏物語』第12帖<須磨>において、光源氏の須磨での住まいについて以下の一文があります。

 おはすべき所は、行平の中納言の、「藻塩垂れつつ侘びける家居近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり。

 (訳=お住まいになる所は、行平中納言が、「藻塩たれつつ」と詠んだ侘住まい付近なのであった。海岸からは少し入り込んで、身にしみるばかり寂しい山の中である。)

【源氏物語の本文と訳は 渋谷栄一先生のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】


※在原行平=平安時代初期の実在した人物。平城天皇の孫、阿保親王の子。異母弟に在原業平がいる。
『源氏物語』内では、行平の和歌「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に 藻塩垂れつつわぶと答へよ」(たまたま私のことを尋ねる人があれば、須磨の浦で海藻に海水をかけて垂れる水のように、涙を流しながら侘しく暮らしていると答えてください)を踏まえて、須磨の浦の塩焼きの風景と侘しさを象徴しています。


 源氏物語ゆかりの地「須磨」を訪ねるにあたって、伝承の地を訪ね、在原行平ゆかりの史跡を訪ねるのも源氏物語をたどることになるといえましょう。o(^-^)o


須磨の浦
JR須磨駅の南側に広がる砂浜




 「須磨」の名月

■『源氏物語』第12帖<須磨>において、中秋の名月を眺めながら宮中の御宴を想う場面があります。

 月のいとはなやかにさし出でたるに、「今宵は十五夜なりけり」と思し出でて、殿上の御遊び恋しく、「所々眺めたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。

 (訳:月がとても明るく出たので、「今夜は十五夜であったのだ」とお思い出しになって、殿上の御遊が恋しく思われ、「あちこち方で物思いにふけっていらっしゃるであろう」とご想像なさるにつけても、月の顔ばかりがじっと見守られてしまう。)

 八月十五夜<中秋の名月>は、内裏の清涼殿 殿上の間で天皇主催の管弦の宴が「月の宴」として催されていました。

 光源氏は寂しく須磨で中秋の名月を眺め、宮中の管弦の宴が恋しく、光源氏の都にいる恋人たちもまた月を眺めているだろうと都に思いを馳せ、おのずと月をじっと見つめてしまうのでした。

 光源氏は和歌を詠みます。

   「見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ
    月の都は遥かなれども」



 (訳:「見ている間は暫くの間だが心慰められる、また廻り逢える
    月の都は、遥か遠くであるが」)

【源氏物語の本文と訳は 渋谷栄一先生のwebサイト『源氏物語の世界』より引用】


 須磨での暮らしは寂しいものの、美しい満月に癒されたようです。


■光源氏のモデルの一人である在原行平も須磨で月見をしたと伝えられています。
須磨離宮公園 「在原行平月見の松」跡



 光源氏が退去した土地がなぜ「須磨」であるのか?

「須磨」=現在の兵庫県神戸市須磨区の南西の海岸一帯の地。

自ら須磨に籠ることで須磨よりも遥かに遠い地へ“流罪”されることを避けるため。
 
 須磨は摂津国の南西にあたり、“畿内”の最も遠い場所です。
畿内<山城・大和・摂津・河内・和泉の五ヶ国>は朝廷から特別な扱いをされる行政地区でした。
(平安京があるのが山城国です。)
摂津国の「須磨」は畿内のスミにあることから、スミがなまってスマになったといわれています。

朝廷へ謀反を起こす意思がないことを主張するため。
 
 右大臣一派の力が増幅し、光源氏が京に居たままでは無実の罪をかぶせられて失脚する可能性もありました。
 朝廷から居住を許される畿内ギリギリの須磨に留まることで、朝廷に対する謀反の意思がないこと・朝廷への恭順を示したかったと思われます。
 退去することで、光源氏が後見する東宮<のちの冷泉帝>とその母・藤壺中宮、我が子・夕霧や愛する紫の上に累が及ばないことも視野に入れていました。

須磨が製塩の地であるため。
 
 須磨は、古くから「塩焼き」が知られ製塩の地でした。塩は調味料・保存用のほか、不浄を祓うものでもあります。罪・穢れ・障りを除去するための禊の土地というイメージを想定したのかもしれません。
 結果、光源氏は須磨で身を澄ますこととなります。

不遇の期間の終了
 
 穢れと障りを祓い、身を澄まし、人生が順調に進まない不遇の期間を済ます土地とも考えられます。


※なぜ「須磨」なのか諸説あると思います。<(_ _)>



 『源氏物語』起筆伝説・滋賀県大津 石山寺

石山寺  『源氏物語』は紫式部が石山寺に参籠しているときに構想が浮かび、書き始められたという伝説があります。

 紫式部が石山寺に参籠中、八月十五夜の満月が琵琶湖の水面に映るのを見て、光源氏が須磨に流され都を想う場面を書き綴ったのがきっかけだとか。
 これにより、『源氏物語』は「須磨」「明石」の帖から書き始められたとも言われています。

 石山寺
 住所:滋賀県大津市石山寺1-1-1
 ⇒石山寺 公式サイト




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